感情が決壊しそうなまなざしが示すもの~映画『すばらしき世界』

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映画を観るとはどういうことなのか。

それは他人の物語に入るということだ。自分ではない人物やキャラクターの視点から社会や環境、歴史といった捉えどころのない大きなものと、登場人物との関係や距離の変化を眺め続ける。
映画を見ている間、自分の生活はいったん保留となる。チケットの半券を握りしめて暗い空間に入り、約2時間後にまたそれぞれの日常へ戻っていく。
映画を見終えた後、様々な思いを持つことになるが、それでも自分自身の在り方自体に大きな変化はない。当然のことだが、それは自分自身を取り巻く実際の社会や環境が強いる力が圧倒的なものだからだ。


しかし変わらない日常の中、ふとした瞬間に映画の1シーンを回想している自分に気づくことがある。そのシーンがどういう意味を持つものなのか、繰り返し、繰り返し考えている。なぜそのシーンなのか、自分にとって何の意味があるのか。考えた末いつも答えは出ない。思考を深め納得のいく結論に至ったこともなく、そこから教訓を見出して人生を改善することができたといった経験も皆無だ。


それでも映画を見ていくなかで、いくつかのシーンが自分の中に残っていくことがある。それらは実人生の思い出と区別のつかないくらい強く印象深く、体のどこかに刻み込まれていくような気がする。


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先月末、映画館で『すばらしき世界』を観る。
西川美和監督が佐木隆三の小説「身分帳」を原案に脚本も担当。人生のほとんどを刑務所で過ごしてきた三上を役所広司が演じている。まっとうに生きようとする三上だが、新しい生活はうまくいかない。
感情的かつ暴力的な三上のような男が近くにいたら大変だと誰しもが思うはずだが、物語が進むにつれて、必ずしも酷い人間というわけではなく愚直で不器用すぎるために社会とうまく折り合いがつけられないことが随所で示されていく。


ドキュメンタリーの対象として三上に目をつけたテレビスタッフ2人と一緒に入った焼き肉屋で、三上の今の様子をテレビディレクターが「社会に出されたとたん赤ちゃん並に無力ってこと」だと評する。また、テーブルの向かいに座ったテレビプロデューサーは、この状況について三上一人の問題ではなく社会の在り方を問うべきテーマだと論じる。
その様子を見つめる三上の表情がとても印象的だ。
三上は目線を下げて睨むように相手を見つめている。しかし、瞼の下は今にも泣きだしそうなくらい赤くふくらんでいる。怒りと不安、混乱。いくつもの感情が混ざり合ったとき、人はこんな表情をするものなのだと思う。


そして、この表情と対をなすシーンが後半にある。子どものころに親から離れて暮らしていた養護施設を訪ね、園児たちとサッカーに興じる場面で三上は感情を抑えることができなくなる。地面に倒れ込み体を曲げて泣き続ける三上は子どものようでもある。


西川監督は映画のタイトルについてこのように語る。
“これは人生を取り戻すために生きていく男の話しであるが、取り囲んでいる社会とはどういうものなのかという問いかけでもある。皮肉なニュアンスを持たせるためこのようなタイトルをつけた”


社会とかいう大きなものと対峙し、子どものように無力だということを実感する。だからどうすればいいのか、明確な答えも持ちあわせていない。ただ、どうしようもないと感じたとき、この映画のシーンがなにかの支えになってくれるような気がする。